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「ネットはゴミ」を考えてみる
ダイヤモンドの記事で岸博幸氏が、インターネットの現状に苦言を呈した。
- 「かんぽの宿」騒動で分かった! 賛否両論なき日本のネットはゴミの山 :ダイヤモンド・オンライン
題からして、反響というか、批判を受けそうなものだけど、当然、それは岸氏も投稿する前から予測していたことだろう。だから、この記事を読んだ瞬間に思考停止し、脊髄反射的に批判するようでは、岸氏の言う「ゴミ」と同類になってしまう。
そこで、もう少し、真意を探ってみようと思う。
インターネットに強く、情報収拾能力がある人からみれば、この記事はナンセンスなものに見えるかもしれない。しかし、「多くの人はそのような情報収拾能力を持ち合わせていない」という前提に立てば、この記事の本質もあながち間違ってはいない(これは、決して「国民はバカである」と言っているのではない。「情報を調べる時間が十分にある人は限られる」という意味だ)。
つまり、新聞やテレビのない状況で、何が正しい情報なのかもわからず、インターネットを利用して検索したものの、上位が偏見に満ちたものだったら、国民はその情報を鵜呑みにしかねない。この状況を打開するためには、マスメディアの再生と進化が不可欠である。と言うのが岸氏の意見だ(と、思う)。
確かに、信頼できる情報源というのは必要だ(現在のマスコミが信用に足るものかどうかは置いといて)。一般人の知の集合である「Wikipedia」も、「間違いはそれほどないが、重要な情報が抜け落ちていることが多い」と指摘されたことがある。Wikipedia自身、医療項目などには注意書きがあるが、多くの人はそれをあまり気にしないだろう。結局、インターネットにおいて、何が正しくて、何が間違いなのかの判断は、個々のメディア・リテラシーに委ねられている。
また、ネット上で議論する場合でも、参加者が多くなればなるほど、議論することが難しくなる。次から次へと、意見が書かれていくからだ。中には十分吟味してある質の高い意見や批判があるかもしれないが、ほとんどは、流れをみてコメントするだけの「ゴミ」だ。少なくとも、既出の批判を繰り返すだけのコメントは「ゴミ」と断言できるだろう。コメントにモデレーション(コメントの評価)を導入すれば、ある程度ゴミをカットできるが、そうすると、多数派の意見しか表示されなくなってしまう。また、よく考えずに気軽に(無責任に)モデレーションできるネット上においては、誤った意見でも、評価されれば、多くの人はそれが正しいと誤解してしまう(これはあくまでも短所であって、モデレーション自体を否定するものではない)。議論が十分にされないまま、意見が偏れば、それが積み重なって、まるでネット上での常識のように感じてしまうのだ。
だから、岸氏は「ネットは基本的にゴミ溜め」と、バッサリ言った。それは、「例え正しい意見であっても、注目されなければ無価値である」ということだ。じゃあ、このブログもゴミなのか。そうである気もしないでもないが、一応、それは違うと言っておく。一見、このブログは「個人ニュースサイト」のように見えるけど、自分の認識では「公開ノート」といった感じだ。公開している以上、間違ったことは書きたくないから、できるかぎり裏をとり、よく調べようとする、そうすることで、自分の考えが少しずつ固まっていくのだ。ブログはその手段に過ぎない。だから、自分にとっては、無価値ではない(・・・ゴミを量産してすみません)。



